昭和52年02月15日 朝の御理解
御理解 第4節
「此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折には、天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげを授けてやる。」
ただ、金光様と言えば助けていただくと言う事ではないですね。金光大神の言う事にそむかぬように。言う事をそむかずによく守って信心しておって、初めて金光大神助けてくれと言う事になってくる。ただ金光様と言いさえすりゃ、おかげがいただけると言う事ではないね。実はおかげを頂けるである。まさかの時に、金光様といややっぱり、おかげを頂いてますです。けれどもここの御理解の芯と申しましょうか、それは金光大神の言う事を、良く聞いてと言う事です、良く守ってと言う事です。
それが大事です。そこに金光大神いわゆる、天地金乃神というにおよばぬと。それは金光大神が天地金乃神と直結しておられるからの事でありましょう。金光大神の言う事にそむかぬようにと言う事は、どう言う事であろうかと。昨日研修のときに、栄四郎が正奉仕をしておりましたから、昨日研修にも参加しておりました。でその発表を聞かせて頂いておって素晴らしい事を、昨日の御理解から頂いてまあ発表しておるんですよ。
で僕はもう言う事やらは、いつでもぴしゃりしておるねと言うて、しかしまあ私はそん、言う事だけではなくて出来なくても、そういう願いを持っておると言う事は、しかしあの嘘ではない。やっぱりそういう願いを持っておるから、ほんならそういう素晴らしいことも言えるのだとと私はその、拍子でそんな風に申しましたことでしたけれども。そのなかに、親様を現したいと言っておりますですね。昨日の御理解は、神心となりて人へ伝えていくと言う事はね。
それが神様へのお礼にもなれば、それがまた神にもなると言う事の御理解でしたですね。それ昨日私自身の事を聞いて頂いたんです。私がおかげを受け、そしてまあ人が助かることさえ出来ればというのですから、先神心だと思うのです。ちょうど研修の最中に、ある方から電話が架かってきた。もう本当にいと簡単に大変なことをお願いされて、またおかげを頂いて、昨日もその大変なことをお願いをしておられたのが、おかげ頂いたから、おかげ頂きましたと言うて電話が架かってきたんです。
もう何十年信心しておりますけれども、第一お参りをしてきてもその、もう大体お賽銭位で参る方なんです。ま時々百円ぐらいのお初穂をされるという方です。お願いだけはもうしっかりなさいます。所がおかげを受ける事は又間違いないです。もうそらたまがるごとおかげを受けるです。もう何十年間信心しておる。だから私は昨日先生方にその事を、今丁度その半ばに電話かかって来ました。今の人のようにね。言うならただ参ってくるとは参ってくるけれども、ほんなら私の言う事を聞くわけでもない。
金光大神の言う事を聞くわけでもない。教えをどんなに長うかけても、聞こうとしない。けれどもおかげは受けておる。だからもし取次ぎ者、私がです神心をなくしてもうこげなその、教えも頂かなきゃお供えも出来んごたる、御用も出来んごたるこげなこっじゃ、この人はおかげ頂ききらんと思うたら、おかげはその場で止まるよち、私は申しました。けれどもその、私はその人のね無邪気さを買ってるんだと。
とても普通のもんなら厚かましゅう、とても厚かましゅうして、こげなお願いは出来んとか、もうこんなお願いして、こんなおかげ頂いたんだから、それこそもうあのせめて金の十万なっとお供えせにゃおられんと言う様なおかげを、ずうっと頂きながらですよ。あのそんなこつなんかは無頓着というほどしに無邪気なんです。だから私はその無邪気心を神様にお取次ぎさせて頂くから、何時も良く助かるんだと。だからこらその本人が徳を受けるとか、力を受ける事はないでしょうけれども。
四神様あの桂先生のお話の中にもありますように、「氏子に、さっさとおかげだけは渡しとけと、この世で氏子がその、まあいうなら借金払いが出来んときには、神様へ対して。あの世までも俺が集金なしてやる」と仰ったそうです神様は。だからあの世に来てから、集金にどんこられたら大変ですから、皆さんこげな真似はばさらかせんがよかです。はっはは取次ぎ者いかんによっておかげは頂くです。「あんた、そげなこっでおかげは頂かんばの。」
「あんたそげなこっじゃ、おかげ頂かんよ」と私が思うたり、言うたりしたら、本当におかげ頂かんです。だから昨日は丁度その半ばでしたから、その人の例をとってから、これから皆さん、一つ一つ修行をさせて頂くのですから。問題はおかげは神様が下さるのです。ただ私共はそれを取り次ぐだけなんです。信心が頂けようが頂けまいが。願わくば信心を頂いて力を受けて。
身に徳を受けて身しのぎの出来るような信心になってくれよというのは、神の願いであるけれども、これは取次ぎ者のまあ言うならば、神の願いであって、私共がそれをそう育てようとか、そうさせようとかと言う事は要らんことだと言う事です。だからおかげを頂くほうの側が。それによって研きそれによって改まって、いよいよおかげを頂いていかなければいけんのです。
そう言う様なま御理解の中に、なら昨日栄四郎が、発表しておりますように。「僕は親様を現したい」とこう。親様を現すと言う事は、そのまいうならば、親様の言われることを良く聞いて、それを守らせて貰うて。そしそれを人に伝えて人が助かったときに、初めて親様の教えを頂いて親様の。おかばいを受けながら、こうおかげを頂いたと言う事になるときに、初め、親様を現すことになるのです。
その内容は実際は出来ておりませんけれども、そういう願いを立て思うておることだけは、本当にそうだと私も信じます。まだ本当に身体が言う事をきかん。心と体が調子が会わないと言うのが実際のところでありましょう。先日から鹿児島の稲垣さんの弟さんが、一日ここで修行させて頂いた。ご本部参拝をしてある難儀な人間関係の問題で、金光様にそれをお取次ぎを願った。そしたら金光様が御理解を下さった。
どういう問題であろうが。その問題を感ずるならば、先ず自分が生かされておると言う事を知りなさいと仰ったそうです。自分が死んでおり冷とうなっておりゃ、それこそ問題をわずらわしいとも、困ったとも思わない。自分が生きておると言う事を先ず知りなさい。まあ本当に簡潔であの、その通りのことでございます。だからこれをねあの悪用するといけませんです。
本当に例えば病気をして、熱があるとか腹が痛むとか致しますけれども、腹が痛むことも熱があることも、なるほど生きておる印だとしてお礼を申し上げなければならんけれども、自分が乱行をしておると言う事。自分が金光大神の言う事は聞いていないと言う事。自分が親先生の言う事は、一つも聞いていないでです。そしてなら苦しいことになってまいりましてです。その苦しいこともやはり、生きておる印ではいけないでしょう。今日は、そこんところを非常に強調して頂きました。
乱行というとまたオーバーですけれども、また乱行でもそうです。まあいうなら大酒、大食でもいいです。ほうらもう大酒大食してからもう、朝は起きれんごと大酒を飲む。もう、腹がぱんぱんするごつ食べちから、もう明日は胃が痛むと言った様な事では。そういう時にです、はあ本当にこがしこ食べられることも。こがしこ飲まれることも、本当に生きとればこそと言う様な所に持ってきたんじゃいかんでしょうが。金光様のいかにお言葉であってもです。
その苦しいことの、私はその元と言う事を。分からせて頂く時に心からお詫びが出来る。そして後の生きとる印であります。本当に金光大神助けてくれと言えば助けてやると。その前提として、金光大神の言う事にそむかぬようにと言う事が出来て、おかげが頂ける。昨日のお話の中に。人に自分がおかげを受けたことを実意丁寧に、人に伝えていく。そして真の信心をさせるのが、神へのお礼であると同時に、それが神になるのぞと言う事であります。だからいうなれば、私はここ三十年近くです。
そのいよいよ神様へのお礼と、神になるのぞという修行を、何十年間続けてきたと言うことになります。自分が助かっておる事実を。皆さんに聞いてもらう。そして皆さんが助かってくださる。それが神様へのお礼と、神になるのぞという働きとを頂いていくことが出来る。昨日はだからあの御理解を、私自身の事をいわば聞いて頂いた。皆さんが私の事を生神様とか。親神様とかこの頃はもう親先生だけじゃもう、どうも足らん感じがする。生神大親先生ち書いてくる人があるです。
もう大の字を付けとる。だから私はそういう頂き方をすれば、頂くほどおかげを頂くから、そげな事は言いなさんな、そげなこつ言いよると、また問題になるよとは言わないです。それこそ生神教祖金光大神様じゃないけれども、私がなんで生神であろうぞと仰る。神様はああ仰せられるけれども、私は土掘りの百姓じゃとおっしゃる様に。人が生神大親神様であろうが、生神様と言おうが、金光様と言おうがです。私はそれこそ無学の商人に過ぎないんだと。
それがおかげを受けて、おかげを受けたことを人に伝えていくことによって、人が助かっておるだけの事だ。人はああ言われるけれども、神様はああ仰せられるけれども、私はやはりいわゆる無能無力な私であるという自覚。かと言うてほんなら教祖様は、ここに仰るようにです。おかげを受けたことを、それを人が助かることさえば良いという修行をさせて頂いて人にそれを伝えて、人が信心になりおかげを頂いて助かり、だから神へのお礼も神へなる精進も、私は三十年間してきたと言う事になるわけです。
そこでですなら昨日の御理解から続いて頂いてから、今日のところを頂きますとです。金光大神助けてくれと言わんでも。親先生助けてくれと言えば、おかげを授けてやると言う事も言えるのじゃないでしょうかね。一番実感として。皆さんが色々なとき親先生と、例えば、唱えるという方が沢山合楽には出来てきた。それでかげを頂いておる。それはなぜかというと、なら私が金光大神の言う事を聞いて。
金光大神のいわば言われることを頂いて、金光大神と繋がり、金光大神が天地金乃神様と繋がってござるから、そこに一貫したそういう働きが生まれて来るんだと言う事であります。それにはねなら昨日栄四郎が発表しておりますように、本当に親先生を現そう。栄四郎は親様を現そうといっております。なら親様を現すと言う事は、親様の言う事を聞かなければならない。守らなければならない。そこにかくおかげを頂いたという実証を。その実証を持って人の助かることに精進していく。こらもう取次ぎ者だけに限ったことではない。そこに神へのお礼も出来れば、神を現すことも出来れば。
わが身は神へなるところの精進と言う事にもなって行くのです。皆さんの信心が段々出来られて、なら子供達がです。「お父さん。」とこう言えばそこに奇跡が起こるくらいな。やはり、お父さんでありお母さんになられれば、もっと素晴らしいことになる。親先生と言うよりも「お母さん。」と言うたほうが、身近に実感として言えれるほどしのお母さんであらなければならない、お父さんであらなければならない。それはお父さんがお母さんが、親先生に繋がってござる。
親先生が金光大神に繋がってござる。そして金光大神が天地金乃神様に繋がってござると言う事になるから、おかげは一番身近な人のお名を唱えて、おかげの頂けれるようにならなければならないし、また合楽では、そういうおかげを受けておると言う事です。そこでほんなら私が栄四郎に。あんたはとても素晴らしいことを言っておる、けれどもそれは、空言とは思わない。それは本当の実感だろう。けれども実際はその言うておることと、行いとの上にはなかなか出来ない。
昨日私はまあ学院から見えておられる、修行生の方達が今日帰ります。十五日間それでもう合楽で本当にまあ、色々にお話を頂いたり実際見たり聞いたりしてきた。特にまあ合楽理念なんかの事については、様々な角度から説いて聞いてもらったけれども、そういう事はまあどうでも良い。けれどもね金光様の信心、又は御道の教師でも志すものはね、辛抱力を作らなければ、どういう素晴らしい教えを頂いても、それはもう反故になるのと同じことだと私は申しました。
だからこれだけは、合楽に来てから覚えて下さいよ。信心辛抱と言う事は、随分皆さんも耳に馴染んでおる事。聞いておること。だから聞いておる知っておるだけではなくて、これだけはほんなら、を真似をしなければならんと言う事ではない。自分なりにです。五の事が辛抱が出来たら、次には六の次には七の、八のと言う様にです。自分の辛抱力の力を伸ばしていく稽古をなさい。
もうどんなに素晴らしい先生でも、どんなに素晴らしいお話の出来れる人でも、あの人は仏様神様のような人じゃというても、辛抱力のない先生のところでは、助かりもせん自分も助からん。この辛抱合楽で。辛抱するという事を一つ覚えて帰ったというだけで良いから、これだけは忘れんで帰って下さいよ、頂いて帰って下さいよと言うて、繰り返し申しました。その事について私は、神様からもこまごまと実は頂いたことがあるから、その事を申しました。
どんなに素晴らしい信心が出来ても、辛抱力のない人はおかげは受けられませんです。いや御徳が受けられませんです。力が受けられないです。だから栄四郎が発表するところの、親様を現そう。そんなら現すためには、どうせんならんか良く分かっておる。その事を例えばほんなら一つ一つ、自分のものにして辛抱力を作っていくときに、それが本当の願いであればです。いつかはそういうチャンスが来るだろう。本気にならなければならん時が来るだろう。
そん時が楽しみである。皆さんでもそうです。どんなに素晴らしい教えを頂いても。三代金光様がもうそれこそ、「信心には辛抱することが一番大切でございます。」これは三代様のお言葉です。ご自身がそれこそ十三のお年から、八十三歳七十年間という間を辛抱しぬかれて、そして仰るお言葉ですから間違いがありません。昨日私が頂いたことも、本当にいうならば。これも生きとる印だと言うてです。乱行のほうに生きとる印を使うような事では、辛抱力が足りんから、そう言う事になってくるのですから。
都度都度に、自分の目の前に現れてくる、様々な問題の中から辛抱力を作らせて頂いて、金光大神の言う事にそむかぬように。ここでは親先生が言われることにはそむかぬように。皆さんが神様を現すと言う事は、親先生を現すと言う事なんだ。ほんなら親先生を現すことのためには、親先生のいう事を聞かなきゃならない、辛抱力を作っていかなければならない。そして親先生が言われる通りにしたら。かくおかげを受けたという、おかげを受けなければならない。
それを人へ神心となりて、人に伝えていくときに人が助かる、それが真の道を踏んでいくことになり、それが神になるのぞと言う事にまでなってくるのであります。昨日も今日も、いうならば、私の事を聞いて頂いたわけですけれども、今日はとりわけほんなら、金光大神と言えば助けてやる。それにはその前提として、金光大神の言う事にそむかぬようにという事があって、金光大神助けてくれがあると言う事を、今日は親先生助けてくれと言えば、助かるだけのおかげを受けておると。
これは昨日に引き続いての事なんですね。ですからそんなら親先生の言う事を聞かなきゃならない。心に叛く様な事をしてはならない。それでいて初めて親先生であります。親先生が言うならば、ほんなら金光大神の取次ぎによって、天地と昨日のあのどう言う事からでしたかね。その私の事を生神様とか、神様とかと言う人達の事からでしたけれども、これもまんざらだから、しらごとじゃないと言う事です。
というのは私が天地とね、もうほんの僅かの僅かではあるけれども、何時も私と天地が交流しておるという事実です。これは私が言い語ることですから本当なんです。私が天地とほんな僅かではあるけれども、交流しておる。だから交流しておるところだけを神と見ることは間違いないことだ。だからもちろんほんなら、神様との交流のおかげを頂く事のためにそれこそ。いわゆる心行に本気で取り組ませていただき、そこから生まれてくる、天地の、言うならば、リズムを聞き続けながら。
信心生活をしておる事になります。そう言う意味でです私は今日はなら親先生を現そうという信心。そこにはほんなら親先生を現すためには、言う事に叛いてはならない。そこに親先生と唱えれば、そこに即おかげが頂かれるおかげが受けられる。それは決してその、合楽よがりとか私よがりの事ではなくて、これは全てのいうならば教会でもです。これはもう間違いのない事ですよね。甘木とかあの泉尾あたりで、大変おかげの頂かれるところの信者さん方が書いておる事は、もう神様のおかげとは言っとらんですね。
はあ私一家親先生のおかげで、親先生のおかげで、みんな親先生のおかげでというです。信者の中にはあもう、神様のおかげでという信者のところじゃ、あんまりゴヒレイの立っとらんところです。本当親先生のおかげでと、もう口をつけば親先生のおかげが出る人ならば、親先生と交流しておることでもあると同時にです。そういう教会なら必ずゴヒレイが輝いておるです。そらなしかと言うと、親先生を即金光大神と頂き、神様と頂いておるからのおかげなんですからね。
どうぞ。